僕たちは結果や実績を大事にする。
何人の評価だとか、
何%売り上げたとか、
何円の価値だとか、
出来るだけ価値を数字にして、視覚化してきた。
お金というのは、
希少性、時間、知識、労力、有形、無形の
多くの価値の概念を紙幣として
単純化させてきたもの。
お金という概念が生まれ
価値の交換が容易にできるようになった、
人がモノを作る時代では
生産量に限りがあり、
ある程度の価値の判断の予測ができた。
けれど産業革命が起こり、
人の作業を機械が代用し
それに伴って生産と消費が増大し
モノの価値は次第に下がってきた。
技術が発展していくにつれ
何が機械で代用していて、
何が人間の手で生み出しているのか、
どれだけの労力と、
どれだけの時間をかけたのか。
そのモノの価値を個人で想像することが、
難しくなった。
気が付けば労力や時間の価値は考慮されず、
希少性と利便性の価値でお金の値段が決められてきた。
私たちはその過程の中で
時間や労力、などの目に見えないものの価値を
想像することが乏しくなったんじゃないかって思う。
かけてきた時間や
費やした労力だけじゃない、
人に与える経験や知識、
感動することも、
安心することも、
笑顔になることも、
目に見えない価値であり
大切な価値だ。
私たちはいつの間にか、
目に見えないものの価値の評価を
ないがしろにして、
できたものの利便性と希少性でのみ
評価するようになってきた。
結果がすべて。
数字や実例など、
目に見える成果を求める。
目に見えない価値に対して、
自分で評価することも
自分で判断することも
いつの間にか減ってきた。
社会というどこの何者かもはっきりしない、
存在が作り上げた価値の値段に依存し、
それが正解だと信じ切っている。
いつの間にか、
気が付かないうちに、
私たちは、
価値を感じることを忘れてしまった。
「効率」という言葉で溢れかえり、
効率的でない全てのものごとを、
「無駄」だと唱えはじめ、
感じることも、
考えることも、
減ってきた。
全てのことに「意味」を求め、
目的を説明できなければ評価されない。
生産的で、効率的、
それこそが絶対的価値だと、
多くの人たちが信じはじめ、
文化はそれに応じて
変化してきた。
ロボットのように同じ生活を繰り返し、
目的のない遊びは「無駄」で悪の行動だと罵る。
罵られた人間はロボットに擬態し、
ゆっくりとロボットに順応していく。
人間か機械かわからないモノで溢れ、
人間か機械かわからないヒトで溢れかえる。
その中で順応できない心達は
傷つき、
追いやられ、
葬られていった。
目に見えない価値について、
今一度、想像することが大切だ。
効率的に便利になっていく中で
私たちがそこにたどり着くまでに
かかった時を、想いを、
考えることが大切だ。
刺激的なものが多くなっていく中で
何気ない喜びや、
小さな幸せ、
やるせないもどかしさや、
怒り、悲しみ
言葉にできない気持ち達を、
感じることが大切だ。
時間や、意志、
そして、
心を動かすことの価値を、
見つめ直そう。
私たちは
幸せを追い求めて、
ここまできたのだから。
絶対忘れちゃいけないことなんだ。
情報技術革命が起こり
「モノ」ではない「コト」が、
価値として見出される時代がやってきた、
知識や情報など無形のものが、
インターネットによって拡散され、
情報が飽和してきている。
悩んで苦しんで時間をかけて
作ったモノづくり、コトづくりの隣で
機械やデジタルが一瞬で模倣し、量産する。
多くの乾いた人達を惹きつける為に
刺激的なモノで溢れかえり、
道徳や倫理観なんて、
考える暇もない速さで、
めまぐるしく社会は変化し、
移り変わってきた。
こんな時代だからこそ
考えなければならない
心の存在を、
時間の存在を、
「目に見えないものの価値」を。